官僚だって間違える~役人の無謬性を助長しているもの~
”官僚(役人)の無謬性”というフレーズがある。
ざっくり言うと、
行政の政策や決定で、外から見て、明らかにこれおかしくない!?ってことが起こっても、
いや、これは、元々こういう理由があるから、これでいいんです!自分達が間違えるわけないでしょう!
って間違いや失敗を認めないこと。
確かに、彼らが内部で意思決定する様子をみていると(全部ではないけど)これは、こうなったときに責任を問われるからやめよう、とか、
こうしておけば、後々どう転んでも言い訳が立つ、とか
いかに自分達が責任を回避するか、という点が物事の判断基準になっている。
もちろんそこに、国民とか住民のため、という視点はほとんどない。
条件反射で言い訳や、責任逃れのロジックを考えているようにさえ感じる。
こういうの見ていると、なんだかなーと思うのだけど、
そもそも何でそんな風になっちゃったの?
って考えてみると意外と問題は複雑だと思えてくる。
そもそもなぜ、そのような基準で判断するのか、ってことだけど、
端的に言うと「怒られるのが恐い」のだと思う。
最近は公務員、公的機関への風当たりも強く、何かあればすぐに叩かれる。
公共の利益を考えて意思決定を行っても、何か少し不備や問題があるとすぐ叩かれる。
そもそも今までやったことのないような斬新な取り組みほど、やってみなきゃわからない部分は大きく、全く問題がでないようにやるなんてほぼ不可能。
つまり、みんなのために良かれと思ってやったことでも、ことあるごとに、重箱の隅をつつかれたり、足を引っ張るような揚げ足とりをされたら、
じゃあ、新しいことなんてやめよ。
ってなるのも(それが正しいかは別として)理解できる。
逆にこれが、国や国民のため、新しいことにチャレンジして失敗したとき、
ああ、今回はダメだったけど頑張ったよね、とか
ここを改善すれば次はうまくいきそうだよね、とか
ある程度失敗を受け入れる雰囲気があれば、
(本当は失敗したけど)これはこれでいいんです!予定通りです!
じゃなくて、
力が及ばず申し訳ありませんでした!次はがんばります!
って具合に変わっていくと思う。
(いや、もちろんいい加減にやって、簡単に失敗しちゃいました~はダメだけど。。)
そのためには、メディアが、揚げ足取りばっかりするような報道姿勢をみなおして、
今回は失敗だったけど、これは意義のある取り組みだったとか、失敗して責任を取るリスクを負って頑張った役人がいるとか、
そういうスタンスの報道が増えるといいのにな、と思う。
とは言え、それは中々期待できないので、一個人ができることといえば、
1. 揚げ足取りや、足を引っ張るための批判記事はスルーする、とか、
2. 行政等の失敗が役人の怠慢なのか、ある程度仕方ない原因(不足の事態や、必要なリスクを受け入れた結果)によるものなのか、各自で調べて、報道を批判的な視点で見る、
あたりかな。
いずれにせよ、足を引っ張るような批判するばっかりではお互い身動きの取れない息苦しい世の中になってしまうので、批判は建設的で、前を向いたものでありたいと(自分への戒めもこめて)思う。
<2018年6月追記>
財務省の公文書改ざんは、役所として問題外だけど、やはり根底には間違いが許されなさすぎる文化がある気がする。もちろん批判はきっちりされるべきだけど、過剰なまでの責任追及やバッシングは、問題の隠蔽を助長しかねない。
今の何かちょっとしたことがあるたびに炎上する雰囲気とかも余計役人の隠蔽体質を助長してしまうと思う。